盗まないとは何を盗むのだろうか?

ヨーガ・スートラには実践編として8つの部門がある。
その2つ目にあるのがヤマというものだ。
所有欲に関する内容がある。所有したいという気持ちとはどんなものなのだろうか?
所有するということに対して色々なステージというものがある。手にしたことがなくて所有したい!と願うことであったり、
所有したことにより満足をしてしまう人や、所有したら独占したがる人や、所有したらそれを持ち続けたいと思う人もいる。
それぞれに所有に対する意識というのは違っていて、どれもが感情がその感覚には大きく影響すると思われる。
世界で全員が持っていているに自分だけ持っていなかったら・・・欲しいと思うだろうか?
たとえ1円の価値でも皆が持っていたら自分も欲しいと思うだろう。
逆に1つしかないものだったら? いくら出しても欲しいと願う人もいるだろうし、まったく興味がわかない人もいるだろう。
限定200名だけが参加できるコンサートがあったとして、そのチケットを手にしたら所有欲が自分にわきあがる。
その200名だけが参加できる権利を手にしたのだ。すなわち所有権だ。権利を手にしているという事実が
そのチケットの価値を跳ね上げる。もしも売ってくださいといわれたら10倍の値段を提示するかもしれない。
手に入れたという権利が心の欲を刺激して価値を跳ね上げるのだ。
人は一度手にしてしまった所有権に対してほれこんでしまうものなのだ。
使い慣れた財布にしたって、車にしてもそうだ。時間と共に思い出として価値が上がっていくのだ。
旅行にて色んな買い物や食事をした時に使った財布。レジャーや買い物や旅行で使った愛車。
その愛車も中古屋さんに持っていってびっくりする。え!こんな価値しかないの?
”私”が使っていたものなのに!
愛着とは使って初めて芽生えるものなのだ。
市場では使ったことない人、所有したことない人を満足しないといけないので
お店が用意するその商品の魅力は価格だったりする。
そしてその所有の感覚にはもう1つの別の要素もある。
一度所有したものを手放すことに対する欲だ。
一度手にしたものを手放すことに人は大きな抵抗を示すのだ。
在る物が永遠にそのままであることはあり得ないということから盲目になってしまうのだ。
”私”が手に入れたもの。
”私”だけのもの。
すべては絶えず変化していて、それを所有した瞬間さえ一瞬なのに。。。
永遠と錯覚してしまうのだ。
ではどうしたらいいのだろうか?
自分の中にある1つの解決策はシェアすることだ。
感動を共有する。
無理矢理相手に合わせて”分かる、分かる”と共感したり、した気になるのではなく、共有するのだ。
それには正しい理解と自分自身を静かな状態にして受け入れ態勢をちゃんとしてないといけない。
盗むことなく、所有意識に心を揺らされることなく、皆で共有していくこと。
距離と距離が近いことも共有感覚の大事なキーかもしれないし、
共有感覚については自分もまだまだ勉強しないといけない気がする。
2500年前と現代における”盗む”という単語1つでも意味合いが違うはずだ。
2500年前の人々とも”盗む”という意味合いを共有しないといけない。
すべては相手との距離感を縮める作業であり、
相手の立場に立つ作業が自分の位置を示してくれるのかもしれない。。。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です