心は身体うつす鏡なのだ。

アシュタンガ・ヴィンヤサヨガを教えていると、
生徒さんとポーズが出来る、出来ないというトピックで話すことがある。
個々の身体の状態によって練習内容が違うのがアシュタンガヨガの特徴だ。
身体能力が高い人や、手足が短く体幹部を使うのが得意な身体だったり、
身体が非常に柔らかったりすると、その人に必要なポーズも変わってくるので、
ついつい他の人と比べてしまう。
だから、ポーズがどうしたらできるか?何故に、出来ないのか?


…など熱心に気をつけて、ヨガの練習をしてそうな人ほど、
ポーズが出来る人と比べてしまっていたり、
自分が出来ているという未来の幻の姿を描いてそれに執着していたり、
要は、今の自分と向き合っていないのだ。
または、できていないから嫌だと思って
無意識に自分の身体の状態から目をそらしてしまっているのかもしれない。
大事なことは、
これらは自然なことで、
人なら当たり前の傾向だということ。
この状態が現れてからがプラクティスなのだ。
ある朝、生徒さんに言うのだ…
「観るべきものから目をそらしてしまっているよ。
そんな心を観察しなさい。」
そっと囁くのだ…
すると帰ってきた答えは…
「アシュタンガヨガって25歳までのヨガなんですよね?」
という答えが帰ってきた。。。
心に25歳も、100歳もない。
8歳ぐらいの幼稚な心で、超上級ポーズをしている人もいる。
25歳までの身体が必要だなんて、
オリンピックにでるには何歳からその競技を始めてないといけない…
と、言っているのと同じだ。
他の人と競う競技でもなければ、完璧な身体を求めるコンテストでもない。
身体は心を知るためのツールにすぎないのだ。
人は自分に都合のいい方へと流れてしまうものだ。
ストレスという負荷がかかっていれば尚更だ。
ヨガはまさにコレラの無知に打ち克つために練習するのだ。
まだまだ無力だが、
少しでも霧が晴れるように、
そのわずかなサポートをするために、
自分は生まれてきたのだ。
自分だけでなく、すべてのヨギ達は…
自分もまだまだ無知に支配されることがある。
プレッシャーという負荷のもとで霧が真実を覆い隠す…
だからこそ練習が大切なのだ…
「昔はアシュタンガヨガやっていましたよ。」って、先生に出会うことがある。
今は、どんな練習をしているのですか?って、聞くと、
「色々なヨガを転々として、今はもっぱら教えるのが忙しくて練習できてないな~
あーーー、練習したくなってきた。アシュタンガ再開しよっかな~」
って、先生がいる。。。残念だけど、この人はまだヨガに出会っていないのだ。
目の前に何度か在ったとしても、ヨガだと気づかずに通り過ぎてしまっている…
どれだけ本を見ても、DVDを見てもヨガなどうつっていない。。。
幸せなど発見できるはずがない…現実逃避、逃避行という旅は楽しめるけど…
その後の虚しさはもっと辛い…
身体は心うつす鏡なのである。
惨めな日常をうつしだす鏡なのだ。
こんな不安に満ちた社会でおびえる自分をうつしだす鏡なのだ。
平静を装っても震災後は特に身体はおびえている…
一歩を踏み出す勇気を失っているのだ…
でも、それを見ることなくして、幸せには、出会えない…
闇の向こう側にしか光はないのだ!!

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