小さい頃。
何故? 何故? 何故?
といつも聞いて親を困らせたらしい。
困った親は自分で調べなさいといい、調べるための本や情報を提供してくれた。
この部分に関して、自分は親に大きな感謝をしないといけない。
宇宙の存在を知った時も、じゃななぜ?空は青いのか?
そのわけをずっと考えていた。
自分の中で出した予想は陸よりも広い海の青色が映っているのだ!
だから、昼間の空を見ながら壮大な海を意識し、夜の空をみながら壮大な宇宙を見ていた。
昆虫に興味がわいたときも、必要な辞典や図鑑はすべて与えてくれたし、昆虫採集の道具や
標本や顕微鏡や、望遠鏡なども与えてくれた親には感謝しないといけない。
まぁ、当時は興味あることへの没頭にそんな余裕もなく当たり前だと思っていたのだけど。
化石に興味をもった時にも、化石のサンプルを買ってくれたり、瑞浪とかに化石採集に行く機会を
くれたことにも感謝しないといけない。
小学校3年は大人のハワイ研修に空きがあってついて行ったりした。
このとき恐ろしく美しい海を見ることになるのだけど、
誰かに、「この海は人工の海なんだよ」と、聞いて、
アメリカはすごい! こんな海を作ってしまうのか!と、人工の氷のスケートリンクのようなものと思い、
人工の海の壁に触ってやろうと、頑張って泳いだりもした。
(泳いでも、泳いでもたどり着けなかったけど・・・)
人工だったのは、ビーチの意味で、砂浜が人工なだけで、海は本物だったんだけど・・・
興味のあることに没頭するのは尋常ではないらしく、
小学校の3年~4年で初めて受けた河合塾の全国模試などでは、理科はいきなり全国7位だったのを覚えている。
(まぁ、全国、全部で何人いたかは知らないけど、テストを受ける小学生などあまりいないだろうね。)
そのための勉強などしたこともなく、結果に興味などなかったけど覚えているってことは
競争社会に興味があって嬉しかったんだろう・・・当時の彼は・・・
その後、悪意に包まれた時期もあったり、競争の輪の中で我を失ったりもあったが、まぁいい。
なぜ、幼少を振り返るのか?
それが今の自分を創っているからだ。
過去の瞬間、瞬間が原因となり、今という結果を因果しめる。
今を自信持って感じるためには過去に振り返り整理しないといけない。
良いときも、悪いときも、ただ天気が良かったり悪かったりしていただけのようなものだから、
けど、知らないといけない。それが良いものだったのか?悪いものだったのか?
整理しないといけない。 それを浄化とかいう人もいるが・・・
誰かに観てもらってもいい。まぁ、お遊びだけど・・・ジェットコースターに乗るようなものだ。
悪いわけじゃない。 本気になるのは曇っているようなものだ。天気にも曇りがあるように。
ちゃんと、過去を振り返らないから(目をそむけるから)、みんな過去を語りたがらない。
自分が何をして、何をしていないか分からないから恐怖がつきまとう。
何もしてないのに死ねないっっっ!
日々の行動、日々の発言、日々の思考が、すべてを語る。言葉だけが語るものではない。
そして、その語っているものがその人の教訓であり、遺書なのだ。
自分は親に感謝している。
時に、その語っているものの方向性を変えようとすらする。より良い教訓と遺書を作って欲しいからだ。
そして、その教訓や遺書の内容、生きた証(あかし)の代表的な部分が息子であり娘である。
自分が素晴らしくあることが、親が素晴らしかったことの証明なのだ。
これが自分の思う、自分の感じる、輪廻するということだ。
その、素晴らしいという意味は決して有名であるとか、お金を稼いでいるとか、友達が多いとか、
人気者だとか、頭がいいとか、ではない。
むしろ、そういうことでないと知ることが素晴らしくあることだ。
親がいない人もいるかもしれない、けれども、親のように何かを伝えてくれた人や社会や本の中の
登場人物や歴史上の人物などいるはずだ。
世界はまだまだ不思議に満ちている。
自分もまだまだ不思議に満ちている。
好奇心が唯一、知性に光を当ててくれるのだ。
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