デカルト「方法序説」を読むの巻(1)

『方法序説』第1部は、デカルトが「なぜ新しい思考の方法が必要だと考えたのか」を、
デカルト自身の経験を通して語る導入部となっています。

哲学的主張というよりは、知的自伝に近い構成になっています。

ヨガ哲学において、デカルトの言うところの理性は、ブッディが近いのではないでしょうか。
ヨガ哲学のブッディとは、【知性】を意味します。
[ 補足:ヨガインストラクターにとっては当たり前の知識ですが、ハタヨガで登場する心(マインド)とは、ブッディ、アハンカーラ、マナス、この3つの機能の総合的な働きを指します。]

植物で言うと、屈光性(くっこうせい)という適応システム(機能)が
自然に太陽の方向へと芽や幹を伸ばしていくような、
自然に備わった能力のことを【知性】といいますが、
人間の場合は高度な【知性】を持つことから、理解力も含まれます。

しかし、ヨーロッパ哲学においては、理性は、動物との対比から人間だけが持つ部分、
理解力の方を特に理性とよんでいるようです。

ちゃんとその場の理解があるから
理性が働いて感情のままに生きないことを動物ではない、
人間であるとする分けです。

この時代の教育のベースはキリスト教であり、
今でいう科学などは無い時代(徐々に現れ始めた時代)であるという
背景も知って置かないといけません。

世界は平らだと言われて、信じられていた時代ですからね。

多くの哲学が語っているのは、
1人の人(主体)が、どう世界(客体)を見ているのかという
シンプルな構造ですが(逆にシンプルだから語れる)、
実際の世界はそんなにシンプルではないので、
多くの場面で語られる真理は、場面からの1つの切り抜きのような部分です。

この主体と客体の考えですら、デカルトの時代にあったかどうか分かりません。

とはいえ、数学好きのデカルトが、
すべてを確実に正しく知っていることとは言えないと失望するのはよく理解できます。

神の真実と、数学の真実とを比べると、確実に正しい答えを導いてくれるのは数学になります。

自分も答えがシンプルに揺るがない数学が最も好きな教科でした。
難しくとも何時間も考えれば正しい解答(真実)へと到達できるからです。

デカルトと同じように考えたのがインド哲学のサーンキャ(数)哲学ではないでしょうか?

サーンキャ哲学を背景にあるのが、ヨガや仏教です。
ヨガが心の科学と言われるのも、その仕組みを数学的に捉えているからでしょう。

現代でも同じことが言えます。

英語を学んでも(英単語をひたすら覚えても)、まったく喋れない人々、
ヨガ哲学を学んでもヨガの練習(レッスン)が単なる体操やストレッチになっている人々、
有名モデルのヨガレッスンに記念写真を撮りにクラスを受けにいく人々、
難しい本に出てくる言葉を意味も理解せずにオウムのようにペラペラ喋る人々、
というような、一方通行のコミュニケーションを良しとする人々がいます。

これらを提供する書物や人は、
こちらが受け取った内容からの質問に答えてくれません。

また、受け取る側も体験する、
本を読み終わるという目的(結果)だけに満足してしまい、
その過程における体験から何を感じ、
何か疑問や違和感がないか湧きあがる衝動を感じようとしてないのです。

題2部へと続きます、、、

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