新時代を3枚におろす!!

我々は混沌とした時代に
生きていると断言できます。

簡単、便利さを追求することは、
多くの人々にとって当たり前かもしれないけど、
身体能力はどんどん落ちていきます。

損得で物事を考え合理性を追求する社会は、
正しいようにみえるけれど、生き物の命の大切さからは、
どんどん遠ざかっているように感じました。

牛・豚・鶏・魚などの生き物、
果物や野菜などの植物、
もちろん、我々、人類や動物たち、
細かくは微生物から水や土や空気ですら
生命のある大切な存在なのに、
すべてが表面的になっていくのです。

現代社会は、素性をお互いに知らない人々が狭いエリアに密集して生活して、
複雑な変な社会になっていくにつれて、マインド(思考)がその複雑さを処理しきれなくなって、
フリーズして(固まって)しまっているからです。

生き物の殺めないというベジタリアン的なアプローチから
生命を大切に扱うという方法もあるのですが、
都市に住んでいる自分的には生命と逆に遠ざかっていく気がしていました。

自分で生命と向き合って生きていることを実感したい!という想いから、
いつか、自分で食べる分は自ら魚を釣り、そして、さばき、調理できるようになりたい!
と、思うようになったのです。

「我、想う。ゆえに、我あり。」

有名な言葉をフランスの哲学者がこう言っていましたが、
想う(思考)する暇がなくなり、
「我」を認識できなくなってしまい、
過去に記憶された感情だけを表現するだけの空虚な器なのが、我々なわけです。

すなわち、感情の暴走が生じることになります。

人々は「好き嫌い」だけで生きる、感情の劣化した暴動物だらけの社会なわけです。

自由に生きている野生の動物ですら、自然の掟(摂理)に従って生きています。

社会の複雑さに飲み込まれている自分もコロナ禍という時間は貴重な3年間となりました。

何をするべきか?
または、
何をしないべきなのか?

身体感覚と向き合い、感情やマインドの揺らぎと向き合い、これからどう生きていくか?

そんなことを考えたのは
自分だけではなかったはずです。

社会にかき乱されて冷静さを失い、
思考停止していた人も多いとも思いますが、これからは、
まったく心配はいらないとだけ言っておきましょう。

社会はまた動きだしたのです。

運動して体力をつけ、座禅やヨガをして心を整えて、
次回の社会混乱に備えれば良いだけです。

先ほどの400年前にフランスにいた哲学者
ルネ・デカルトは、こうも言っています。

「複雑な状況は分割して考えよ!」

コロナ禍社会が終焉を匂わせたのが昨年2022年でした。

新しいことに挑戦したい!

という衝動に突き動かされて、
生き物とシンプルに向き合うぞ!
という新しいプランの第一歩を突き進むこととなりました。

【魚を包丁で自らさばけるようになるぞ!】

春は鯵(あじ)の季節です!

日本古来の食の選択に戻り魚介類中心の生活を目指している自分には、ぴったりのテーマです。

レストランシェフの友人に聴いたら、
習うならば、和食の知識のある料理人から学ぶべきだよ!

という助言で見つけた、
月一回だけの魚を3枚におろす教室も通い始めてすでに1年が経ちました。

なんせ、初めてちゃんと購入したのが出刃包丁なので、扱いが怖いのなんの!!

魚を3枚におろす、3枚目がまさか骨の部分だったとも知らない状態からのスタートでした。

こういった教室に通い始めるのは衝動的に動いたようにみえるのですが、
衝動の根拠となる「意識の種」はもう何個も過去に意識に植え付けられていたものでした。

すなわち、
感情の暴走ではないという意味です。

さまざまな影響があるのですが、高校時代に読んだ、
「サバイバル」という漫画の影響が強いかもしれません。

いわゆる無人島で生き残る系の話で、文明の力に頼りすぎる不安があおられ、
自然の中でたくましく生きる人への憧れが高まる物語です。

そういった物語を思い出したのが、
フィジーで釣りをした時のことです。

フィッシング自体は、船酔いやら、日焼けやら、筋力、体力などの問題はあったものの、
なんとかなったのですが、ご飯があまりにも残念でした。

ちゃんと魚をおろせるスタッフがいなく、我々も誰も包丁が使えなくて、
包丁と料理はちゃんと使えないと! と、つくづく痛感したのです。

ヨガの教えでは、「アヒムサ(非暴力)」の実践が、苦しみを減らすという考えがあります。

ベジタリアンにも完全菜食のヴィーガンから、
自分のように野菜中心だけど魚介類は摂取するというペスカタリアンもいます。

完全菜食の方からしたら、生き物を殺める暴力はすべてやめるべきだという意見があるのはわかります。

自然とそうなった人はいいと思いますが、ファッションや思い込みで完全菜食を選び
自分の気持ちを殺してまで我慢するのは不自然にどうしても自分は感じてしまうのです。

ヨガの練習もそうですが、完璧を目指して実践しても
ろくなことがありません。ある程度で妥協して、
自分の不完全さを受け入れていく事も正しき道なのではないでしょうか。

菜食だから完全に生き物を殺してないわけではないのです。

雑穀類や野菜を作る為に
動物が生きる森は壊され、
農薬により虫は殺され、
ひどい場合は大地は汚染されてきました。

ご飯をいただきますと、声にだしたとして、誰に対して感謝しているのでしょうか?

「複雑な状況は分割して考えよ!」

デカルトの声が聞こえてきます。

そのご飯の向こう側には、料理した人、調味料に関わる人たち、加工した人、運搬する人、
材料を育てたり手に入れた人たち、などなど、複雑すぎるほどの関わりがあり、その誰の顔も分かりません。

複雑すぎることで、混沌とした食材になってしまっているわけです。
誰の元へと行くか分からないようでは食材も大切に扱われないはずです。

月に1回ほどですが、魚を3枚におろすようになり、分割は3つぐらいがちょうどよいなと気づきました。

漁師さん→ 卸業者→ 市場(スーパーマーケット)
漁師さん→市場→レストラン
畑→ 業者→ スーパーマーケット

これらのように減らして、自然からの食材が自分に到着するまでの人が
誰だか分かるようにしていく実践が、大切なのです。

自分の住んでいる場所近くの食材を直接的に仕入れている八百屋さんやお店で購入したり、
農家さんから直接購入して調理していくこと。

オーナーシェフのレストランなど、調理人が分かる店でご飯をいただくなど、
お互いに顔が認識できる環境をつくっていくことが、
豊かな人生をおくる1つの方法だと分かりました。

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