歎異抄とヨガ(その②)

さて、前回に続き・・・第2話をベースに進めます。

自分は仏教は詳しくないのですが、
この番組の解説とヨガの知識と実践による理解を融合させようという試みです。

さて、第2話のメインのテーマは・・・
『「悪人」こそが救われる?』です。

なんてキャッチーなタイトルなんでしょうか?
 
日本史などでは、
「悪人正機説」と呼ばれるようです。
 
ヨーガ・スートラの時もそうですが、
全ての文章に登場する言葉というものは概念です。
 
何が言いたいかというと、当時の世界観で使われている「言葉」なので、
現代とはニュアンスが違うのです。
 
親鸞上人の言葉は、
「善人なほもって往生をとぐ。
いわんや悪人をや。」
 
(善人でさえ浄土に生まれることができるのです。
まして、悪人はゆうまでもなく、間違いなく往生をとげることができるのです。)
 
ここで、よく分からないのは、
みんな往生したいんだ〜という気持ちです。
 
往生の意味が
そもそもよく分からないので…
 
辞書で調べると、
①〘仏〙この世を去って、他の世界に生まれ変わること。
特に死後、極楽に往って生まれること。「極楽━」
と、あります。
現代において、
「死んだら天国いきたいな〜」
って思っている人がどれほどいるのでしょうか?
それより、
「生きてるこの世が天国のようであって欲しいな〜」
って人が多い気がするのだけれど、どうなのだろうか?
「死」が身近にあった鎌倉時代とは、
「生きる」「死ぬ」「生活する」の
ニュアンスすら違うのだろうか?
そして、
どうやらここで言われている、
「善人」と「悪人」のニュアンスも
違うようです。
仏教の中で使われる「善人」とは、
自分で修行して煩悩を消し去り、
悟りを開けるような人のことを言うのだという
ぎゃくに「悪人」は、それができない人のことを言うようです。
ここで自分は悩むわけです。
我々が思っているような盗みを働いたり、
人を騙したり殺めたりする人々を仏教では「悪人」と呼んでいないのは、
なんとなく分かりました。
今の世で言うと、煩悩をどうにか扱おうとせずに、
思いのままに生きている人を「悪人」と呼んでいるようです。
すなわち、ほとんどすべて人々に当てはまりますね。
煩悩をどうにかしようと修行しているんだけど、
なんともならない人はどこにはいるんでしょうかね?
と、思っていたら、
歎異抄の第9条で、80代半ばの親鸞上人と、
30代半ばの唯円とのやり取りが紹介されていました。
唯円「念仏を唱えるプラクティスをしていても、
躍り上がるような喜びの心も湧き上がらないし、
浄土へ往生したいという気持ちがおこってこないのは、
どのように考えたらよいのか?」
と自分の迷いを質問しています。
すると、
親鸞上人「この親鸞も同じように不思議だったのですが、
唯円あなたも同じだったのですね。早く往生したいという心境へといくこともなく、
病が起これば死んでしまうのかと心細くなるような煩悩の仕業が働きます。
行ったことのない穏やかな極楽へと行くよりも、
悩ましいこの世で悩んでいたいというのも煩悩が強いからなのでしょう。」
と言っているのです。
親鸞上人は、念仏でいくら救われると言われても喜べない心境を語っているのです。
すなわち、自分も「悪人」なんだよってことでしょうか?
でも唯円が、このエピソードを持ち出しているのは、
来世で極楽に行けるよっていう口約束を喜べないような人でも
救うために阿弥陀仏は存在しているという理屈のようです。
要は、「慈悲の光を信じることができるか次第。」ということでしょうか?
悟りを開くことを喜べないような、「悪人」だから阿弥陀仏の力は絶対で、
救いは間違いない(ちゃんと信じていれば)という論理だそうです。
はい。
何が何だか分からないですよね。
これも一種の
「No pain. No gain.」でしょうか?
ヨガのプラクティスの世界観で見てみましょう。
華麗に様々なポーズができて一見ヨガを極めたような人や、
微動だにしない瞑想マスターのような「ヨガ善人」はいかにも悟ったような気になっているだけで、
そんな人々には慈悲の光はやってこないのだと言っているように聴こえます。
 
不安や辛さを絶えず持ちながらも、
慈悲の光にただ包まれていると信じながら葛藤しているような人にこそ、
救いの道は、救いの光はやってくるのだと聴こえます。
(ちゃんと信じていれば・・・)
鎌倉時代の彼等が言う極楽浄土というニュアンスがどのようなものか分からないのですが、
ヨガで言うところの「極上の気づき」のようなものならば、
「自力」で華麗なるポーズを手に入れれないけど頑張る努力と「他力」で
そういった気持ちを手放すことが同時に必要だと、ヨーガスートラは語っています。
「自力」でどうしようもない惨めな自分の姿を歯を食いしばって見つめながらも、
その絶望を「他力」の智慧にて手離していくことこそ真髄であるのだよと聴こえてきますが、
どうなのでしょうか?
煩悩にまみれ怪我によりボロボロの身体を引きずって長い間、
ヨガで惨めな練習を誰からも認められることなく続けているし、
これからもそれが練習だと信じて続けている自分に対して少し励まされた気がしました。
そうだよ。僕もいまだ惨めに煩悩の中で活動しているのだよ。

そして、それが無くなったような時は「他力」の影響のない闇へと進むだけだよと…
しかし、
ここで華麗にポーズを決めれる人々を悪く言っているのではないです。
華麗ではないと言っている自分も、また別の人から見たら華麗にポーズをしているように見えるかもしれないからです。
ここで、
アシュタンガ・ヴィンヤサヨガを広めたパッタビ・ジョイス氏の言葉を思い出します。
プライマリーシリーズは全ての健康を手にいれたい人々の為にあり、
セカンドシリーズはヨガの先生と言われる人の為にあり、
サードシリーズはそれでも満足できない不幸な人のためにあるのだよ・・・
継続的な練習そのものに価値はあるとおもいますが、
どこまで進んでいるか?ポーズが見栄え良くできるのか?
というマインドゲームの世界観ではエゴが喜ぶだけとなります。
あたかも極楽にいて、もう何もしなくてよいと思いきや、
慈悲の気持ちも感覚も遠ざかってしまうのでしょう。
でも、そこが唯円の言うところの「悪人」サイドだと気づけば、
またよい方向にいけるのだと思います。
だから、そういった不幸な人々の為に、サードシリーズ、
フォースシリーズと用意されているのだろうなぁ、というのが1つの解釈です。
まとめとして、
最初の話に戻りたいと思います。
80代半ばの親鸞上人が言う、
私はこの年齢でも泥臭く煩悩と向き合っているのですよ、
という言葉の真意は、ヨーガ・スートラのプラクティスの説明から納得がいくと思います。
プラクティスは、長い間ずっと心を傾けて行って
初めてしっかりとしたものとなるとスートラは言っています。
この点からも、
親鸞上人が「自力」のプラクティスをしていないとは思えないのですが、
毎日毎日、自分のマインドの状態をみつめて煩悩と長いこと向き合い続けていたのではないか?
と、勝手に想像してしまうのですが、
どうなのでしょうか。
自分の中には最初から「自力」と「他力」を両車輪として車を進めるべきだという考えがスートラを知るより前にあるのは仏教の影響かもしれないと思い始めました。
 

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