語り部であり見せ物であるのか?

ヨガを伝えるものとしての、
60分、75分、90分、などの1レッスン(1コマ)という
長さで完結しているヨガのレッスンを提供するものとして、
1つの完成された、
というより、
1つの信念をもたれたものである必要があると思う。
ヨガのアーサナ(ポーズ)によって人々はどこに導かれているのか?
信念というと肩が重いのだろうからテーマというと分かりやすい。
こないだテレビで面白いことを言っていた。
昔話や伝説は口頭により伝えられてきたのだ。
有名な『あかずきん』や『シンデレラ』もそうだ。
それがいつの日にか絵本や映像で伝えれられるものになった。
なってしまった。
なってしまったのだ。
いつものことだが、それにはメリットとデメリットが付いてくる。
映像は目で伝えられるから内容(状況)が複雑になったのだ。
口頭でつたえられる場合ではそうはいかない。
シンプルにしないと混乱する。
そして何度も何度も同じような状況を繰り返すのだ。
確かに言われてみると、昔話では登場人物は色々いても、
会話の時には一対一の場合が多い。
桃太郎もお爺さんとお祖母さんは芝刈りと洗濯で別々だし、
その後、桃太郎も家来達と一人ずつ会っていく。
分かりやすいように主人公が一人の登場人物人物と会っていくのだ。
同じようなことを言い方を変え、伝え方を変え、
天気を変え、季節を変えて伝えていくのだ。
口頭で。
耳から聞いた内容は、それぞれの聞き手の過去の記憶を
くすぐっていく。。。シンプルであればあるほど、
ゆっくりと自分を見つめながら、
自分の内なる沈黙と向き合っていく。
それはまさに意識を集中することにより無意識がくすぐられているのだ。
目で見た映像では車や電車で窓から見る景色のように
情報過多にして頭をぼかしているに過ぎないのだ。
それはエンターテイメントではあるが、
内なる気づきは何処にあろうか。
視覚では多くの情報をいっきょに手に入れているように思える(勘違いしてしまう)
のだが、視覚も聴覚も感覚器官として本質的には同じである。
1個に集中すると他の雑音はなくなる。言い換えると、他の音が雑音になるのだ。
映像も同じ。1個の部分に集中すると他の部分の映像は雑像になるのだ。
一枚の絵として完成されているから他の部分を予想したりして見えている気がしているだけだ。
無意識の世界の扉は閉ざされてしまうのだ。
これが音の世界は知識や知恵などの富たる教養と結びつきやすく、
映像や色彩の世界がエゴや娯楽と結びつきやすい傾向のゆえんなのかもしれない。
あくまで傾向の話だけど。。。
そして、これもまた仮説の話が続くのだけど・・・
世界最古の職業は語り部だと思う。
それか、見せ物屋かもしれない。(現代のサーカスだ)
さてさて、ヨガに関わるものはどちらであろうか?
自分はどちらも大好きだからよく分かるのだ。
それぞれは分けて考えなければならないのだ。
どちらのモノを提供されているのか?(生徒として)
どちらの状態を提供しているのか?(先生として)
どちらも大切な要素なのだけれども・・・
それが絶妙に組み合わされているところに1レッスンの
完結されたものとしての味わいがあるのかもしれない。
ある瞬間は、
「魅せてくれるねぇ~」の場面あり、
ある瞬間は、
「そうかっ!」のような光さす瞬間の場面あり。。。
自分のクラスに参加してくれている生徒さんの反応をみていて、やはり
耳を傾けているときにのほうが深い集中にいる気がする。
もちろん家でDVDなどを見ながらするのに慣れてしまっていたり、
いつも鏡の自分を見るのに慣れてしまっていたりだと、
耳を傾けることに嫌悪感を出す人もいるかもしれない。。。
一期一会、一期一音なのだ。
我々は生徒を選ぶことはできないが、内容を選ぶことはできるのだ。
家に帰ったらまず、うがいなのだ。

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