『草間彌生インフィニティ』を観てきました。
印象に残るのは、高齢の草間さんが今でもしているのは
「死に物狂いで絵を描くだけ」と言っていたことでした。
そんな彼女の半生には凄まじさを感じました。
最初に開催された愛知トリエンナーレで草間彌生の作品を見たときに、
まったく心にひかからなかったし、
そもそも「くさまやよい」という人物もまったく知らなかったぐらいの自分でしたが、
トリエンナーレ以来、視野に入ってくる草間さんの服装は別として顔の表情がずっと不思議だったのです。
映画を観れば理由は分かるのだけど。。
どうして、あの表情になってしまうのだろうか?
その違和感を解消したくて映画館に足を運んだのだけど、そんな答えより素晴らしい内容でした。
彼女が死に物狂いで何か見えない壁を越えようと努力してきたことが生々しく伝わってきました。
表現するということとは?
インスピレーションとは?
生と死の狭間にアートはあるのではないかと疑ってしまう。
生と死の狭間。
自分を含めて現代人の多くは、
死というものが遠くにあり過ぎると思います。
本当に大事な呼吸が、吸うことでも吐くことでもない処にあるように、本当に大事な「いま」というのは生でも死でもない処にあるかもしれないです。
それにしても、形として残る芸術はなんとも羨ましい。
芸術は再現性がないと誰かが言っていたが、それは違うと思う。
自分が表現しようとする変換作業を何度も何時も再現させる。
その繰り返しの中で、偶然なのか?閃きなのか?
たまたまなのか?
新しい変換が生まれる。
ヨガの指導も同じだと想います。
プラクティスという経験の中に、気づきという「ヨガの教え」を変換させていく。
なんども、なんども、狂ったように指導という形で「ヨガの教え」を表現していくのです。
「毎日毎日、死に物狂いでヨガを指導するだけだ」とは流石に言えませんが、
気がつけば10年以上も表現し続けているわけで、
あと20年ほど経てば言えているかもしれません。
ドキュメンタリー映画の中で登場した、
彼女が作成したコラージュが美しすぎて言葉を失いました。
やっぱ、コラージュ好きだなー
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