今回はヨガの経典の話でもなく、
解剖学の話でもなく、
社会学の話にトラベルします!
私が尊敬しすぎている方々の1人、
社会学者の宮台真司先生の、
著書「14歳の社会学」の第1章に飛んでいきます!
「他人性の問題を考えるの巻」
人は苦しみます
地球上の生きとし生きる者たちの中で最も苦しむ生き物です。
苦しみには肉体的なもの、精神的なものとありますが、
大半は精神的なもの、すなわち心(マインド)の働きによりもたらされます。
「マインドの働き」の構造に関しては、
著書「ハタ照らすヨーガ」にて詳しくあるので省きますが、
短く言うと、自分の外の風景(要素)を間違えて自分の中に投影して、
現実と理想との違いに苦しむのです。
その理想の風景は、まわりの環境であり、
簡単に言うと人間関係のある範囲、他者との関係性から構成されます。
現代は人と人とのリアルな交流が減る中、
たとえ知らない人々でも多くの人々が自分を気にかけてくれてチヤホヤしている感があると安心し、
それがないだけでつらく苦しむという新しい環境(世界)も加わっています。
ヨガの練習とは、相手からの自分を見る目線よりも、
自分から自分を見る目線を変えることで、
相手から自分を見る目線の受け取り方(感じ方)を変えるものです。
これこそが、心理学でも社会学でも登場する「他人性の問題」であり、
それを解決する実践の1つこそがヨガであると自分は思っています。
と、端的に伝えると、説明不足で本当に分かりづらくて申し訳ないですが、
少しずつ説明していくのでご安心を。
心の働きの1つに好き嫌いを判断するという機能があります(アハンカーラ)。
株式会社マインドの中に1つの部署があり、
外からもたらされた案件を好きな部分はどこか?
嫌いな部分はどこか?と、仕分けしたり探究する部署があるとイメージしてみてください。
幼きころに、「人参食べなさい!」と言われ、
どうして?と尋ねると、
「好き嫌いは良くないから!」あたかも正しい答えを言われた人もいるでしょう。
健康のために、栄養素のために、
と言われて、
渋々、人参を飲み込んだ人もいるかもしれません。
確かに、好き嫌いは精神的な苦しみを作りだしますし、
栄養素不足は肉体的な苦しみを作りだします。
しかし、嫌いな部分を見つめることで、
人参の味の奥にある甘さに気づけるかもしれません。
または、好きなものを見つめることで、
どうして好きなのかに気づけるかもしれません。
まさに、好きなものに出会ったり、
嫌いなものに出会った時は、
生命が歌い出す生命讃歌の瞬間であり、
精神(株式会社マインド)が成長するチャンスなのです!!
株式会社マインドの好き嫌いをリサーチする部署のお陰で会社は成長し、
さらに、苦しみも減るなんて素晴らしいことではないでしょうか!
食べることだけではありません。
絵を描くこと。話すこと。工作すること。実験すること。楽器を弾くこと。
身体を動かすこと。文字を書くこと。動物と触れ合うこと。植物や自然と触れ合うこと。
などなど、たくさんのことの好き嫌いを探りながら、
試行錯誤して精神(株式会社マインド)は成長していきます。
ここで重要なのは、好き嫌いを探る作業が独りだけで行われていないことです。
好きなことや嫌いなことに対して試行錯誤しているのを見守ったり語る相手が大事なのです。
嫌いなことでも評価しだいで好きに変わることも、(もちろん、その逆も)あります。
子供ならば、両親、兄弟、親戚、両親の友人、近所の人々、
学校の友達などが、自分と相手の関係性をつくるエリアであり、
それを、社会(世界)とよびます。
好き嫌いというマインドの働きが使われながら、
自分の判断による相手の反応を観てまた試行錯誤されていきます。
自分の好きな事を、褒められたり、比較されたり、
自分で比べたり、それについて会話して、考えていく。
自分の嫌いな事も同じです。
その活動の中で、認められて、どんどんしたらいいこと(自由)、
やめておいたほうがいいこと(不自由)などが分かってきます。
ここまでで、大事なことは3つあります
① 自分と周りの人々との境界線がつくる世界が安心・安全であること
② 周りの人々からの褒められたり励まされたりのコミュニケーションがあること
③ 自分自身が試行錯誤の中で自ら考えていくこと
心と向き合う場所となるヨガ教室(MySOUL8Yoga School)を作る時に目指したのが、
実は、①②③のある環境づくりでした。
子供時代をもう一度繰り返して、
好き嫌いの練習をやり直すことはできません。
しかし、ヨガならば、
子供のように新鮮な気持ちで、
①②③な環境で練習をできると思ったのでした。
社会学者の宮台真司先生は、著書の中で、
p.20.『人生うまくいかなくても過剰にみじめにならず、自分がそこにいてもいいんだ、自分は他者に受け入れられる存在だ、と思えることが「尊厳」だった。実は、君が他者に対して自由にふるまえるには「尊厳」が必要だ。わかるだろうか。「尊厳値」が低ければ、他者の前で思い通りにはふるまえない。能力が理由であれ、性格が理由であれ、信仰が理由であれ、「自分はバカにされるんじゃないか」「自分は許されない存在なんじゃないか」と思わざるを得ない状態で、他者の前で堂々とするのは難しい。自由であるためには「尊厳」が必要なんだ。「尊厳」は、君以外の人(他者)から「承認」される経験を必要としている。逆にたどれば、他者から「承認」された経験があるからこそ、「尊厳」(失敗しても大丈夫感)が得られ、それをベースに君は自由にふるまえるんだ。①君が試行錯誤する(自由)→②それを他者が認めてくれる(承認)→③失敗しても大丈夫感をいだける(尊厳)→①安心してさらに試行錯誤する→②→③という循環がある。人間を社会的に成長させるのは、この循環なんだ。』
と、述べています。
インドの経典などでは、metaphysics(形而上学)として、
「我はブラフマンなり」、「私は貴方であり、貴方は私である。」などありますが、
おしえだけでは不十分で、実践が不可欠です。
もちろん、練習だけでは不十分で理論(教え)が不可欠です!
さらに、環境も!
自分が考えてきた①②③の環境と、
宮台先生のいう①②③の環境は驚くほど同じでした。
その環境の中で、
お互い尊厳を持つ仲間同士が、
ヨガの教えに基づき、さまざまなアーサナの練習、呼吸法、瞑想を行なっていく…
…そのさきに、「私は貴方であり、貴方は私である。。」という、
究極の他人性に気づくことができるわけです。
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