10月のフォーカスはラーマヤナです。
先月観たバリダンスに使われる物語。バカバッドギータのような古代インドの物語です。
今月も東京のジヴァムクティ講師 Akki の訳です~
Valmiki(ヴァールミーキ)
ヴァールミーキはラーマーヤナという英雄譚の著者です。でも彼はベストセラー作家になる前は盗人で、伝説によれば、腕が良かったのです。あるとき、彼があるヨギの家から金の水差しを盗もうとしていたところへ、そのヨギが現れたのです。ヨギは金の水差しを取ろうとしていたヴァールミーキを止めようとせず、代わりに何故盗人でいるのか訪ねました。ヴァールミーキが盗みは彼の職業であり、家族は売ることができるものを持って帰ることで家族を養っている彼に頼っているのだと説明したとき、ヨギはヴァールミーキの家族はヴァールミーキが彼らのためにしていることのためにヴァールミーキを愛し、ありがたく思わなければならないと言いました。ヴァールミーキは得意げに同意し、盗みがどれだけ危険で難しいかを自慢しました。しかし、家に帰る途中、ヨギとの会話をあれこれ考え、彼が困った様子もなくヴァールミーキに金の水差しを取らせるがままにさせていたことに困惑しました。家に帰り着いて、彼の妻と子供が何を持ってきたのかと尋ねるまでには、ヴァールミーキは金の水差しを彼らに与えることができなくなっていて、代わりに何も持ってないと嘘をついたのです。彼の妻はヴァールミーキをなじり、もう食べるものがないと苦々しげに不平を言いました。ヨギの言葉を思い出し、ヴァールミーキは妻に愛しているかと尋ねました。彼女が愛というものをあざ笑い、家族に何も与えられない彼を役立たずだと言ったとき、ヴァールミーキは悲しそうに家を出て、ヨギの元に戻って無私の境地について教えを請いました。
ヨギは彼に瞑想を教え、彼にあらゆる疑問と答えが消え去るような至高の悟りに達するまで続けるように言いました。先生を信じて、ヴァールミーキは座りました。彼は何時間も、そして何日も、何百年もおそらく何千年に至るまで座ったのです。蟻がやってきて、彼の身体の上に巣を作り、そのためにヴァールミーキという彼の名前は、蟻塚を意味するようになりました。彼が座っていた長い年月に、彼の外の世界では、ラーマ、シータ、ラクシュマン、ラーヴァナそしてハヌマンの完全な物語を含む、沢山のことが起こりました。物語の最後、英雄ラーマが、ハヌマンの助勢もあって、悪魔ラーヴァナを倒して、愛するシータを取り戻した後に、ラーマの家来はシータの貞淑を疑い、彼にシータを森に追放するように強要しました。蟻塚の奥深くで、ヴァールミーキはシータの涙を感じ、心を動かされました。もはや彼はストイックな瞑想を続けて彼女の嘆きを見過ごすことはできませんでした。巨大な蟻塚の壁が崩れ去って賢者ヴァールミーキが現れ、シータに何故そのように悲しんでいるのかと尋ね、手助けを申し出ました。シータは友人を見つけたのです。彼を信頼して、シータは詳しく物語りました。ヴァールミーキはその全てを、ラーマーヤナとして知られることになる物語として書き下ろしました。ヴァールミーキは瞑想には戻りませんでした。その代わりに彼は妊娠しているシータの後見をすることに新たな人生を見いだしたのです。そして彼女が双子を生んだ後は全てを彼らの世話に捧げたのです。彼は思慮深く、双子の男の子にラーマーヤナを語って聞かせて、彼らの王家の血筋と両親の英雄的な冒険の数々を教えたのです。
他の存在の苦しみをヨギが知ったとき、彼あるいは彼女はそれを無視することはできません。悟りへ至るまで練習しようという決意がいよいよ達成されようとしているときでさえも、共感共苦によって遮られるのです。ヨギは、苦しみから全てを救い出すために、奉仕の人生を生きるのです。これが崇高なsadhanaです。これがカルマ・ヨガです。私たちの生をより崇高なものにするために一番良い方法は、他の存在の生をより崇高なものにするためにできることを全て行うことです。
私たちはこの物語を聞いた後に、何故ヴァールミーキはシータの苦しみへの共感共苦には心動かされ、でも彼の妻と家族の苦しみからは逃げたのかと尋ねたいかもしれません。何故ヴァールミーキは彼を必要としてる家族の元のとどまり、助けなかったのか?その答えは、sadhanaの調和、着実な練習にあります。それはヴァールミーキの心とハートを純化し、水晶のように透明で浮き沈みのない堅固な状態(sthira)をもたらし、それを通じて彼はシータの苦しみを感じ、応えることができたのです。彼がまだ妻と暮らしていたときは、彼の能力は成長しておらず、無知を乗り越えることができなかったのです。
真の奉仕は、報酬を受ける事への期待から心が自由であるときにのみ果たされます。この行動の完成は、時を超えて私たちのカルマが取り除かれた後に現れます。それまでは、私たちは過去の条件付けに従った無意識の習慣によって行動します。私たちの行動が穏やかさと平等の境地によりもたらされるとき、私たちは全ての行動を聖なるものへ捧げることを思い出したとき、私たちは神が私たちを通じて作用する究極にして唯一の行動者であり、私たちはその究極にして唯一の行動者と一体であることを思い出すのです。Atmanjana、私たちのうちにある真なる自己に関する知識は、聖なるものとして現れるのです。
ヴァールミーキの物語は、バガヴァッド・ギータに登場するアルジュナの物語に似た優れた物語です。主人公は、私たち皆と同じようにカルマに縛られた“普通の個人”としてスタートします。それはavidya(無知)、asmita(我想:エゴの基づく傾倒)、raga(執着:喜びへの執着)、dvesha(憎悪:苦痛への嫌悪)、abhinivesha(生命欲:死に対する恐怖)という5つの苦悩(kleshas)の虜です。彼は、彼を内省に向かわせるような不幸を経験し、適格なグルからのアドバイスを求め、グルは彼に教えと共に実践を与えます。そして主人公のsadhanaを通して、過去のカルマは浄化されて智慧が生じ、彼はjivamukta-他の存在への奉仕を行う悟りを得た存在へと変わるのです。
-Sharon Gannon
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