【洛南東エリア】ヨギーな京都の旅「洛南東」編その②です!
(ヨギーな京都の旅「洛南東」その①はこちら)
「フォーカス時代」→室町時代末期〜安土桃山時代
京都太閤秀吉関白ルートである【洛南東エリア】は…
豊国神社→ 方広寺→鐘→耳塚→涙石→宝物館→馬塚→智積院から、元気があれば、豊国廟というルートがお勧めです。(自分は豊国廟までたどり着けませんでしたが・・・)
最近は、歴史を知れば知るほど徳川家康があまり良い印象でなくなります。。
関ヶ原の戦いでもズルいことばかりしてギリギリ勝ったみたいだけど、まぁ勝てば官軍なのでしょう。。
京都復興に尽力して神となった豊臣秀吉の人気は当時相当なものだったようです。毎年8月18日には、豊国神社で開かれる豊国祭では多くの大名や公家、さらに町民まで参拝で賑わったようです。
当時、豊臣秀吉の死後も、朝廷や公家から認められて摂関家として豊臣家ブランドは健在で、豊臣秀頼は織田信長ブランドも継承していたのもあり、人気抜群だったのではと想像してしまいます。
最初は、大阪が予定地だったみたいだけど、京都ピーポーの熱い願いよって今の場所になったんだということです!!
冬は寒いけど、
心は熱い!京都の人達凄い!!
方広寺に豊臣秀頼が納めた鐘の「国家安康」という字が徳川家康の名前を2つに割いているという難癖や、大阪城の明け渡しなどの脅しは、1614年の大阪冬の陣へと追いやられていった歴史を除くことができます。
今の大企業と政府と官僚がグルになって悪政を行なっているのを庶民という国民は見守るしかないのと同じように、京都の民も心の中で豊臣家を応援しながら、ただただじっと見守っていたのでしょうか?
徳川家康は、1615年の大阪夏の陣で豊臣秀頼、淀君を自害へと追い込み、豊臣家を滅ぼします。
さらに、朝廷からでていた「豊臣乃大明神」の神号が剥奪されるよう命令して、豊臣秀吉は神でなくなり、その霊は方広寺大仏殿裏側に建てられた五輪塔に遷されてしまいます。
さらに、豊国神社と豊国廟も存在すら破壊しようと徳川家康はするのですが、秀吉公の正妻であった北政所おね様によりなんとか守られたそうです。
1640年には豊国神社と豊国廟を繋ぐ参道にわざと新日吉神宮(いまひえじんぐう)を再興して、結局、豊国神社は潰されてしまいます。
写真にある今の形となったのは・・・
その300年後に明治天皇によって復興されたものだと知って驚きました。
徳川家康の嫉みなのでしょうか?平和な世を作るためなのでしょうか?
京都では、室町時代〜安土桃山時代だけにフォーカスして歴史と共にもっともっと歩みたいと思いました。
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