上海万博への道のり~②

こういった話はいつか物語にしたら面白いと思う。
愛知博覧会から上海博覧会へと繋がる5年間、国と国(官と官)、会社と会社(民と民)が
それぞれ交流し、外交があり、国交があり、お金の流れあり、陰謀ありのサスペンス大作。
当時の日本は靖国問題などあり、政治的には日本と中国はあまり良い関係ではなかった。
(実際はたいした問題なのではないが、発言を有利にするために色々揺さぶりを掛け合っているのだ。)
とはいえ、日本から中国へと進出する大企業も増えてきて、サービス業などもたまに進出を考えている
会社など増えている時代だったのだ。
親族が自動車の整備士やエンジニアの専門学校を運営しているので学生募集などで2000年ごろより
上海などによく足を運んでいたり、会社を立ち上げたりなどしていて政府の方々とも交流があった。
彼らが愛知博覧会から学びたいというので、愛知博覧会関係者を紹介するのをセッティングしたりして
2005年は中国酒を死ぬ気で飲んだりしてたのを覚えている。
あの頃から上海万博で商売で何かしら関わるというよりは、人と人とを繋ぐことに興味が向いていた・・
詳細を語ることは良くない部分もあるのではしょるが・・
あの当時(2005年ごろ)、小泉政権で靖国神社参拝などで中国とは本当に仲が悪かったころ、
官は駄目だけど、民では大きな交流が作れるのだ!
愛知博覧会での知恵とノウハウを提供し、民によって国交が、強い関係が築かれる!
「日中間の歴史に名が刻まれる!」と、ある政治家の人を盛り上げ、政府公認の万博アドバイザーまで
彼はなったりもした。あの発言をしたときは坂本竜馬にでもなった気がして鳥肌がたったものだ・・・
その後・・・
議員の中で、上海万博支援議員連盟なるものもできて、多くの議員が加盟し・・・
愛知博覧会の市民ボランティアを仕切る人々と合流し・・
日中友好支援センターができ・・・
さらにそれがNPO法人化され・・・
自分はNPO法人化された辺りから、NPO法人の代表理事をしていた人
(元々NPO法人を違う名前で持っていたという理由から突然参加してきた人)
の物の進め方がどうしても好きになれなくて・・・
イベントも参加しなくなっていった・・・
正直、仲良くしていた政治家の方が上海万博の名誉アドバイザーに任命された時点で、
大きな発言をした自分の言葉に対する責任の呪が解けた気がしていたのだ。
NPOの代表さんは広告代理店を経営していて・・・経費やら運営に会社の売上を乗っけている
のが明らかだったし、打ち合わせで彼の会社に行くたびに会社の内情が感じれたのだ・・・
後に聞く話では・・・その広告代理店は倒産したらしい・・・
同時に日中友好支援センターは解散して、違う名前で活動中らしい・・・
規模は小さくなったけど、愛知博覧会で市民ボランティアとして活躍した人々が上海万博でも
ボランティアをしているのだ。
当時、何度も打ち合わせをしていたメンバーが上海にいるのだという。
結局、合えなかったけど・・・
それにしても・・・
あれだけ大きな話となり・・・盛り上がったり、勝手にしらけたり・・・
まぁ、所詮、自分が話の中心でないとテンションが上がらないのだ(責任感もないし・・・)。
最終的に1人の観光客として上海万博に参加しているのだからお笑いだ。
言えば、関係者に多くの知り合いがいるんだけど、連絡する気にすらならなかった。
要は気分の問題なのだ。
橋は誰かに架けてもらうのではない。自分で架けるのだ。自分が橋となるのだ。
誰かの架けた橋に渡れば早いよとか、詰めが甘いとか、とろいとか・・・
これは背が低い人の悩みと同じだ。 個性なのだ。
自分の描く絵はいつも未完成だ。
どうせ絵が完成しても飾るところがなければ意味がないことを知っているのかもしれない・・・
見せる場所、見せる観客、見せる時期がそろって完成といえるのだろうか・・・

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