スダカー先生の2本目のワークショップです。
1本目がヨーガ・スートラからの題、執着と執着からの解放とは?
というものでしたが、2本目は、ココロとカラダの関係~ 股関節 ~ がテーマでした。
何故に、スダカー先生がこんなに人気があるのか?
その秘密がこのクラスにあるのではないか?
・・・という期待が膨らみます。
何故にこんな風に思うかというと、やはり自分がヨガを教えながら
色々苦労しているからでしょうかね?
ヨガの本質は?
とか、人生の嫌気を直視することが本当の癒しだとか、
気持ち良くポーズして身体を伸ばしている人に快楽に陶酔しないで!
・・・と言いながら…多くの生徒さん達は、違うタイプのヨガレッスンに
すーと逃げて行ってしまうを散々見てきたので、
ある意味、本質もあって人気もあることに不思議に感じている部分もあったり、
何か別の特別な方法があるのではないか?
と、興味がわいてしまいます・・・
こう言った意味では、他の参加者さんとは目線が違うのかもしれないですが、
だからこそ、こういったブログが書けるのかもしれないし…ちょっと複雑です。
スダカー先生ははっきり言います。
日本のヨガは、ラグジュアリーだと。
ラグジュアリーというニュアンスは、一瞬つかめなかったけど、
通訳のまどかさんの説明によると、かっこいい・ステイタスと言うニュアンスだそうです。
確かにステイタスと言う雰囲気を持って参加される人もいるけど、
実際、毎日生徒さんを見ている側から見ると、そこまでステイタスかな?
と思ったり・・・
確かに単発参加では、3千円ほどの設定にしていますが、
これは、1回のレッスン参加などヨガの練習したことには、ならないよって意味で、
連続で通っている人も達は半額、それ以下だったりで欧米と変わらない気もするのだけど…
価格がいくらであれ、
参加者の意識の問題を言っているんだろう。
睡眠や食事の様に本当に必要なもののようには、ヨガという存在はいない…
そういう意味でラグジュアリーって使っているのだろう…
自分も、
身体の休息の為に睡眠、心の休息の為にヨガ・メディテーション、って言ってるけど、
「はぁ。。」ってまだ、ピンとこない人もいれば、体感により理解している人もいる。
でも、ヨガ人口から言うと、
まだまだヨガが生活の一部とはなってないことからいっても絶対必需品とはなってないかもしれない…
そういうことも踏まえて、クラス前にスダカー先生と話してみた。
今年、ずっと引っかかっている自分のテーマ。
それは、日本人の性質について。
「日本人は、感情を表にださない。」
それについてどう思うか?ってことを論議しようと思ったら…
スダカー先生は、そのテーマを参加者とシェアしようと思ったのだろうか…
ささっと、会話を切り上げてしまった。。
そういういきさつで、後半のワークショップが始まったのだ。
ホワイトボードに点を書いていく…
その点の周りに円を書き、コレはなんでしょうか?
点であったり、円であったり…
しかし、皆さんは大事なことを見落としていると…この点は、ホワイトボードの上にある点であり、
円もホワイトボードの上にあるものであることを…
ホワイトボードが無ければ、点も円も存しない。。。
私が皆さんに、コレは何ですか?
と、聞くと目が行くのはどうしても点や円だけになってしまうのだ。
自分の解釈だけど、ヨガをする人達が自分で気づいているかどうかは知らないけど根本的に持っている好奇心は、私は誰?というのがあると思う。
けれども、私は誰??私は?私は?
と点や私がいるエリアの円を見ても、円の中の点と言う答えでしかなく、私が見えてこない…
ホワイトボードがあって初めて私が存在しているというスタート地点から見ないと
正確に私と出会う事はできないんだよ、って言ってる気がした。
スダカー先生は、全体を見渡して、言ってることを皆が把握してないと思ったのか?
違うたとえ話を持ってくる。
下に大海、オーシャンがあり、上には木から横に伸びた枝と葉っぱがある。
その葉っぱの上には、一雫の雨水があるのだ。
一雫の雨水は、下を見て思う。あの、オーシャンはどれほど広いのだろうか?どれほど深いのだろうか?
ある時、それを確かめたくなって、葉っぱから落ちることにした。
ポチャンと、大海に落ちて、その疑問に答えれただろうか?
雨水は、恐怖と共に大海に落ちるときに、その雨水という性質を失い、大海という性質に変わってしまうのです。
本質は水であるという、変わらない一体感のなかで…
これも、さきほどと同じたとえにあると思った。
より具体的のようで抽象的に感じたけど、一雫の雨水が私は、私は!と、私は一雫の存在だ!
と思っていたんだけど、変わらない本質、すなわち、本当の自分は、水の属性だと言うことだったりする。
それが証拠に大海に混ざった瞬間に、
それまで一雫の雨水というアイデンティティはあっさり幻のように消滅して、
大海という巨大な水の属性の一部となるのだ。
また、私は?という好奇心が、勝手に私は波だ!私は渦だ!と、言い始めるんだろうけど…
あるヨーガスートラの解説などでは、自然におけるこの一体感を感じれている状態を、
アタ、すなわち、さて、と訳してヨガのプラクティスが出来る状態なので説明をしようか!
と言っているものもあるけど、そういうことかな?…などと思ってしまうのだ。
大海という巨大な水の属性を、社会と言えることができる。
今日の話は、身体とマインド、特に日本人のマインドの話になっていたのだ。
では、この社会というものが、どうヨガのポーズなヒップオープニングと関わるのか?
正直、自分の理解力が乏しいのか?
完全にマスターの伝えたいことを把握したのかどうかは自信がない。。
が、勇気を持って
自分なりの解釈を進めよう…
マスターは、社会性という要素は自分自身を構成する要素にあるという。
エネルギーの集まりとしての我々を幾つかの層に分けて考える。
もちろん、1番の外側は食べ物などで外界と繋がる身体だ。
そして、次の層が思考が来て・・・
・・・とヨガの基本的勉強をしているなら知っているだろうコーシャの様に段階を分けていく・・・
5つのコーシャとの違いは4番目と5番目との間にソサエティーという社会性があるという点だ。
これは、面白い!と、思った。
知性よりも深い層に社会性が来るのだ。
これは、どんな集合知かというと、
長い間、培われてきた民族性と考えると分かりやすい。
島国で、200年続いた江戸時代では国民は、他のエリアに移動する事を禁止されていた。
村社会では周りの人の目を気にしながら、土地に密着して稲を育てて生きていて、
何か不祥事あれば村八分にされたりしてしまう可能性もある世界観。
大陸に生きている人々は、何か不都合があれば、街や村を移動したり、
狩る獲物がいなくなれば新しい場を求めて移動したりする世界観。
大雑把な言い方だが、世界観の異なる思想が自分の知性の奥底に眠っていて、
感情に、思考に、行動、言葉に影響するのだ。
まぁ、その意味で社会性は、3番目と4番目の間にある部分でもあり、
スピリチャリティの一部分ともとれるのでは?と少し混乱した…
いずれにしても、社会性というものの存在をはっきりさせたのは素晴らしいと思った・・・
(この発想はオリジナルだろうか?どの学派か気になる…)
世界で1000年以上続く王朝があるのは、イギリスと日本だけで、
日本に限っては2000年だと言う人もいる。2千年間も1つの同じ王朝が国を守ってきた社会。
世界の中心という意味合いをもつ中華で、漢民族が支配したり、
北のモンゴルや異なる民族が支配を何度も重ねてきたヨーロッパのEUみたいな中華は、
そもそも所有するという概念が違う。
何千年に渡って社会性が違う人々が、領土という利害関係を生む問題を考えた時に、
感情は揺れて、マインドも揺れて、暴動や悪口を言うという行動にでるのは仕方ないのだ。
だこら、我々は、アイデンティティの一部分である社会性という要素を瞬間的に取り払い、
もっと大きな視野の一部分となり、感情やマインドに影響を及ばさない所で世界を見ないといけないのだ。
そして、いつも、
影響を及ばしてしまっているかを判断するリトマス紙のような検査薬として、身体があるのだ。
身体をみるという、手段としてアサナがあるのだ。
間違ったアサナをしている限りは、正しく身体を、マインドを、感情を、社会を見る事はできない。
だから、正しくアサナをしよう!
今回のテーマは、ヒップオープニングと言うことで股関節の稼働域を広げると言うことだった?
ヒップオープニングのお陰で正しいアサナが出来るようになる。
逆を言えば、アサナを見れば、ヒップオープニングができているかどうか?が分かるのだ。
今回はどの種類のアサナを見るのか?
サルバンガーサナだということです。
ヨガのアサナは、逆転とか前屈、後屈、ねじりとか、様々な状態に分けれるのだけど、
どれに当てはまるでしょうか?
という質問から始まり、色々と展開していく。。。
ここから先の実践的なプラクティスの内容は、是非にワークショップに参加して感じとって欲しいです・・
スダカー先生は、色々とカラダを柔軟にしていくテクニックを詳しく知っている先生でした。
1月に南インドの旅の途中で子供を対象にしたヨガスクールをしているシヴァナンダ系の先生の子供の生徒達
によるヨガパフォーマンスを見ました。自分は子供達がどの様な練習をしているのか?を、
想像していたら可哀想になり、気分が悪くなってしまいましたが、この学校の先生は特別に
腕をグルグル回したりして子供の肩関節を柔らかくする特訓をして、ヨガパフォーマンスをする子供達を
育てます。そういった学校での知識を身につけているのかな?って、思ったりしました。。
自分もそうですが、ヨガに関わっていて柔軟性を手に入れれるという媚薬はいつも側にあります。
とは言っても、安全に柔軟性を手に入れれるというのは魅力の1つだと思います。
なにか、ここにスダカー先生が東京で人気を得ている理由があるのかも?って思ったりしました。
最後に、
共感できる事を言っていたので紹介します。
スダカー先生は、
何度も言っていました。正しく出来ていないアサナを、何度練習しても出来るようになることはない!
多分、正しくできてないという意味は、身体的にというより、正しく理解していないという意味だと思います。
柔軟性があろうとなかろうと、正しく理解してなかったらアサナをどれだけ練習しても正しく、
アサナの効果を手にいれれない。という意味ではないでしょうか?
自分も正しくヨガを練習して、
正しくヨガを伝えれる先生が1人でも増えてくれることを願ってヨガ講師養成を頑張っている1人なので、
スダカー先生にも頑張りつづけて欲しいです!
ヒップオープニングの実践のテクニックにはびっくりでしたが、
マインドが、日々の行動や姿勢に影響をするもっと根の深い所に社会性があるという話しには、
目から鱗でした。
確かに、練習を実践して真理を理解しつつある素晴らしいヨガの先生達はみんな、
社会性というテーマから目をそらしていないです。
自分の周りの問題事から影響を受けなくなってくると、
社会性というものに触れずにはいられないのでしょう。
目の前にある多くのまやかしから真実を見つめて社会性という影響からも脱却していく・・・
Facebookやブログの記事などを見ていても、社会と向き合った内容を書いている先生と、
我の強い自分のことだけを宣伝しているヨガの先生など違いがはっきり見えています。
ヨガの実践の先にあるもの。
それがハッキリと見えて嬉しいワークショップでした。
またの参加を楽しみにしています。
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