歎異抄とヨガ(その③)

鎌倉時代に親鸞の教えが混乱を招き、
よいプラクティスができない人々が増えてしまったので
それを元の道へとなおしたいという思いとともに書かれた歎異抄。

歎異抄

その①」では、親鸞上人自身の教えとは?に触れました。

その②」では、何が悪で何が善なのか?
その本質からプラクティスへの向き合い方が分かってくると思います。

今回の「その③」は、そのプラクティスにおいて何が間違いなのか?
どんなことが陥ってしまうミスなのか?ということを考えてみます。

もちろんタイトルの通り「歎異抄とヨガ」なので、
親鸞上人の浄土真宗はよく分かりませんが、ヨガのプラクティスに当てはめて
考えていこうという試みなので悪しからず。。

自分はプラクティスとは、人生(毎日の生活)へよい影響をもたらすものである
と思っていて、根本的には下の内容を含んでいると思っています。

『プラクティスとは
決して楽なものではない。』
最初は知らないことばかりで、
新しいことを知るという変化が楽しくてしょうがなかったりする。
だんだん、
その新しいことが当たり前になってくると、
より大きな変化を求める欲が現れたり、プラクティスの中で自分が誤魔化してきた部分が見えてくると、プラクティスそのものを自分に都合のよい解釈を入れ始めるのだと思う。(だから指導者が必要なんですよね。しっかり内容のあるプラクティスの場合・・・)。
歎異抄の前半部分は、親鸞上人との回想録であったが、後半部分は、そんな陥りやすい間違いを正す部分の説明となっています。
基本として2つの陥りやすい方向性があるようです。1つは、良い行いをして品行方正でないと悟れない!と、潔癖な思考の中でプラクティスをする。
まさに、ザ・日本人!なタイプも「間違ったプラクティス」だよと言っています。
もう1つは、じゃあ、何をどんなことをしてもいいんじゃん!!
っていう開き直りタイプもダメだよと言います。
これはまさに楽をしたらダメだよって
言っている気がするのです。
無理やり自分の気持ちを押し殺して、絶対に悪いことをしない!!
ってのはある意味考えなくて良いから楽だったりします。
逆にしたいことなど欲に任せてやりたい放題というのも、
まわりを気にしないでいいから楽だったりします。
ヨーガ・スートラでも、
プラクティスは、ただするのではなく、意識を完全に置いて(マインドフルネス)する必要があると言っているのと同じですね。
歎異抄に登場する8つの偏った間違いを下にまとめました。
<良いことをしないと往生できない系>
① 阿弥陀仏の本願か、念仏のはたらきのどちらを信じるか?
② 経典を学んでいないと往生できないという間違い
⑤ 煩悩を乗り越えればこの世で悟りを開けれるという間違い
⑦ 他力ではなく、自力でプラクティスするような人は往生できないという間違い
<何をどんなことしても往生できるよ系>
③ 悪を恐れない本願ぼこりを持つような人は往生できないという人こそ間違い
④ 念仏さえすれば罪が消えるという間違い
⑥ 悪を犯したら回心しなければ往生できない
⑧ お布施の多少によって功徳に差がつくという間違い
これらは、
1つ1つを見ていくと
ヨガのプラクティスにも当てはまる罠だと思います。
番組の中で特に面白い話をしていたのは、
やはり、善と悪との考え方でした。
善なのか?悪なのか?などの話をしましたが、この場では善悪そのものの概念を作っているのはマインドの仕業だと言っているかのようです。
何が悪で、何が善か?
自分自身も感じていたことです。
テレビなどで人を殺した犯罪者に対して、
「この人も会って話したら意外といい人かもしれないし、
ましてや、知らない我々がとやかく言うのはおかしいよね…」
って自分が誰かに言うと・・・
大半の人は、「はぁ〜馬鹿じゃないの?
人殺しだよ?最低最悪なやつに決まってるじゃん!」と言います。
最近の
芸能人や政治家批判もそうですね。
悪いことをしているようだから「死ね!死んで詫びろ!」とか・・・
この番組での監修をしている釈さんの説明が神業でした。
テレビ番組などでも、実際に捕まって、
悪いと言われて紹介されている人が世の中には
沢山います。
では自分に置き換えると、
「今、そういった悪い人扱いを
自分がされていないからといって、
では、自分は善人なのですか?」
という疑問を自分自身に投げかけてみると・・・
先ほどの、例でいうと…
人を殺めた人が悪人とされているからといって貴方は、
「今たまたま誰かを殺す縁にないだけで、
一歩間違えると我々だって人を殺してしまうかもしれない。
それが、我々の元々もっている本性なのではないか?」
と言っていました。
ここで、
いつも自分が持っている疑問に
ストレートに向かっていきます。
「善人だから殺していい、
悪人だから殺していけない、
なんて単純な話ではないはずだ。」
やはり、事情を詳しく知らない人々がとやかくいうこと自体が
おかしいということになるのだと思います。
「そもそも我々の考える善悪は
自分の都合を通して考えたものではないか?
自分自身が善人で間違いないと思い込んでしまっている
社会の倫理に依存してしまっている危うさがあるのではないか?」
という話をしています。
深い!
深いが、いつも、自分が幼少より感じていることを
的確に説明していただいています。(これが昔よりできていたら・・・)
ここで気づいたのです。
極楽
往生するとか、極楽に行くとかは、
よく分からないニュアンスだけど、
これは、自分が昔より感じていた、
『自由になるとは?』と同じ表現なのでは?ということでした。
世間が作った「正しい」というレッテルに従っておけば、
まぁ、不満や悪口を言われることはないでしょう。
でも、
マインドはもともと自由なはずです。
このマインドを無理やり押し付けコントロールしようとした先には「自由」や「気づき」や「悟り」や「往生」や「極楽浄土」はないということです。
ここから先はヨガの話でしか自分は分かりませんが、
マインドを抑えつけようとしたり、無視したりしても良いプラクティスはできません。
自分のマインドを徹底的に見つめ理解し、野放しにしながら、
自然と暴走しない方向へと向かうようにすることが大事な気がします。
その世界観には、
善悪も存在しないし、そもそも、
マインドが創り出す自分の都合もないような気がします。
もう1つ紹介している間違いの話が
上でいう④番があるのですが、
これは先ほど以上に深く難解な気がするのでまたの機会にしたいと、思います。
第3話を終えて、
これら法然上人や親鸞上人の流派の
プラクティスはヨガ的に言うと、
バクティヨガなのでしょうか?
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自分も南インドの寺院巡礼の旅をしたり、
伊勢神宮への150キロの徒歩の巡礼の旅をしたりしているので感じるのですが、
アサナを扱うハタヨガよりよっぽど難しいプラクティスの気がします。
バクティヨガのプラクティスは・・・
簡単なハタヨガの道ですら、
陥りやすい罠が本当に多くあるぐらいですからね・・・
自分もその難しさを痛感して、アシュタンガヨガを指導する時にも
マントラをチャンティングすることをしないことが多いです。
その意味でも、もっと、もっと、
プラクティスというものと向き合っていかないといけないと痛感しました。

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