歎異抄とヨガ(その①)

『歎異抄』とは何か?
歎異抄100分 de 名著』を見るまでは知らなかったです。

歎異抄(たんにしょう)の解釈の1部からヨガの理解をさらに
一歩深めれるのでは?と、このブログにて紹介してみます。

番組の第1話の内容より〜
「歎異抄」という本は、
親鸞上人の弟子が730年程前の鎌倉時代に書いたものです。
自分は仏教に関してはまだまだ勉強不足ですが、空海や最澄の仏教が全盛期だった後で、新しく法然上人や親鸞上人が登場したり、禅などの新しいタイプの仏教が登場した時代なのでしょうか?
日本の仏教をそこまで理解していないので、根本的に目標が「気づき」なのか?
「極楽へ行くこと」なのか?国家の「研究機関」としてあったのか?
そもそもの立ち位置がよくわかっていないところが自分の弱いところです。
番組によると、この歎異抄はどんな本かというと、
親鸞上人の門弟の唯円さんが、
親鸞上人の教えと「異」なる解釈が
広まってしまった状況を「歎」く(なげく)ことから、
正しい道へと導きたいということで書かれているそうです。
100分で名著の第1話は、
「易行他力」についてでした。
この言葉は親鸞上人、
そしてその師匠の法然上人が説いたど真ん中の考え方だそうです。
親鸞
この「易行」は激しい修行や学問を追求するような「苦行」と呼ばれるものとの比較である言葉のようです。
番組では、「難行」と呼んでいましたが…
そして、自分で頑張って「気づく」ことを深めるのを「自力」とするに対して、
ただ、阿弥陀仏の名を念じることで「他力」的に誰でも阿弥陀さまの「他力」で「気づく」ことができるから易しいという意味で「易行」だそうです。
当時、僧や貴族や武士しか扱ってこなかった仏教を庶民、全ての人々へと広めることになったのが革新的だったようです。
2500年前に一部の人しか扱っていなかった考え方を全ての人々へ!
ということでインド全土へと普及していった仏陀の人気とどこか似ています。
さらに、法然上人や親鸞上人がどのように革新的だったのかというと、
もともとのプラクティスによって「気づき」をもたらすという自己変容型だったものを、キリスト教やイスラム教に近い「救い・救済」型にすり替えたことだったようです。
ヨガでいうと、瞑想のプラクティスや、身体の感覚を観るようなアサナプラクティスによって気づきをもたらすような自己変容型から、「ハレ・クリシュナ」と唱えるだけで幸せになれるよという救済型のスタイルを前面に押し出したようなものでしょうか?
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ここでは、ハレ・クリシュナではなく、
「阿弥陀仏(ナンマンダブ)」と念じるのですが…
これは、まさにバクティヨガですよね。
自分は幼いころから、
おばあちゃんに「阿弥陀仏」を10回唱えなさい。
そしたらお小遣いあげるよって言われて育ちました。
あれが、嫌で嫌でたまらなかったのですが・・・
今思うと、おばあちゃんの優しさだったのでしょうか?
自分が極楽浄土へと行くためだったのでしょうか?
「阿弥陀仏」の言葉の意味はサンスクリット語から来ています。
ミタという「限り」という意味に、否定語のアがついて「限りない」のアミタというサンスクリット語が中国であて字がふられて阿弥陀になりました。
アーユスという生命を意味する言葉が加わって「アミターユス(限りない命)」やアーバという光を意味する言葉が加わって「アミターバ(限りない光)」という意味を持っているそうです。
南無もサンスクリット語からのナマステのナマスからきているのは有名ですが、番組では「おまかせします」と訳していたのは面白かったです。
ヨガ界では敬うというニュアンスが強いので、「おまかせします」というニュアンスも確かにアリだなと思いました。日本語の奥深さですね。
昔々、自分がおばあちゃんに聞いていた「南無阿弥陀」ってどういう意味?
というのが、
ここにはっきりとありました。
「この世界に満ち満ちる限りない光と限りない命のはたらきにおまかせします」
ということでした。
意味など知る必要なく、
ただ唱えればよいというわけではなかったのです。
そういう楽をするのが他力なのではなく、「この意味を念じること自体」が他力という意味を持っているのだろうと自分は解釈しました。
ヨガでは、「猿の子、猫の子」などの例で他力と自力を説明したりします。
幼少より聴いていた、「念仏さえ唱えれば幸せになれるよ」というのが他力であるという考えは何か違和感を感じてしまうのです。
自分であれこれ考えながら「気づく」のではなく、自分に元々備わっている「気づき」(ヨガではブッディという)の力を使うという意味での他力なのではないか?と自分では解釈しているのだけど、真意は分かりません…
歎異抄の第四条には、
「今生に、(この世に)、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとく(思い通りに)たすけがたければ、この慈悲始終なし。(不完全なものである。)」
という文章が登場します。
親鸞上人は、
「我々の慈悲は不完全なもの」と言っているそうです。
思い通りに中々ならないのが生きることであり、
そこで「信じる強さ」を蓄えるというプラクティスのスタイルが他力なのではないでしょうか?
この著「歎異抄」には、
ヨガのプラクティスでもおちいってしまう間違った道から正しい道へと戻してくれるヒントがある気がしました。
ヨガのプラクティスを続けていると、
自分に都合よく異なる解釈を生みだしてしまったりします。
ポーズをすることや、身体を伸ばす(ストレッチ)ことをしてヨガをやったとか思ってしまう酷い場合もあります。
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まぁ、このブログでも
いつもヨガの練習に対して多くの人がしてしまっている「異」なる解釈を「歎」いているわけですけどね…

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