今月のメインテーマは、Lokah Samastah Sukhino Bhavantu
ジヴァムクティセンターでの発表による英訳は 東京のヨガ講師:akkie によります~
自分でもしようかと思ったけど、訳の完成度に脱帽しました~
アシュタンガ・ヴィンヤサヨガの終わりのマントラの最後の部分でも引用されている
美しいマントラです。
文章は、ジヴァムクティのシャロン先生のヨガとヴェジタリアンの本より~
カッコ内の赤字は自分の心の声です。。。
『Lokah Samasah Sukhino Bhavantu』
(意味)
あらゆる場所の、あらゆる存在が幸福で自由でありますように。
そして、私の人生における思考、言葉、行動が全て存在の幸福と自由に貢献しますように。
もっと詳細にこの祈りのマントラの言葉ひとつひとつの意味を調べてみましょう。
■Lokah: 場所、領域、現在存在している宇宙すべて
■samastah: 同じ場所を共有しているすべての存在(いきとし生きるもの)
■sukhino: 幸福と喜びに専念すること、苦しみから自由であること
■bhav: 神聖な雰囲気あるいは一体化の境地
■antu: ~でありますように、~であるべき
(antuという言葉は、最後にあることでこのマントラを効力のある誓約としているのです。
これは、私たちひとりひとりが毎日実践することができる祈りです。
それが私たちに思い起こさせるのは、私たちが幸福と苦しみからの解放を望むのであれば、
私たちとすべての存在とのつながりはお互いのためになるべきだということです。
他の存在に不幸を引き起こしていては、私たちは真実も永続する幸福を得ることはありません。
他の存在から自由を奪っておきながら、私たちは真実も永続する自由も得ることなどないのです。
もし私たちが、あらゆる存在が幸せで自由であって欲しいと口に出すのなら、私たちがどのように生き、
どのように食べ、何を買い、どのように言葉を話し、
どのように考えるかさえも含むすべてのことを問いなおさなければなりません。
karma(カルマ)とは、“行動“のことです。
それは、すべての行動、つまり思考、言葉そして行いを含みます。
カルマの法則はすべての行いにはその報いがあると告げています。(原因と結果)
アルバート・アインシュタインは、空間が湾曲していると指摘したとき、
私たちにカルマの法則を思い起こさせ続けていたのです。
それがなんであれ放たれたものは結局、でも必ずその出発点に戻ると見いだされたのです。
つまり、私たちは何を考え、話をし、行動するのかについて注意深くあらねばなりません。
なぜなら、私たちは自分たちの行動の報いを受けるだろうからです。
(まっすぐ解き放たれた物(飛ばされた石であれ、ボールであれ、)や発言(空間を響いていく声)、
まっすぐ自分に向かってきている光であれ、まっすぐのように見えるけど、
実は緩やかにカーブをしていて、その原因により結果としていつかは大きな円を描き
自分に戻ってくるということですね。)
この考え方が良く分からない人がいるかもしれません。
それは私たちが今まであまりにも、他の存在を隷属させ、暴力的で、
拒否の態度ばかりの文化になれているからです。
(過去の歴史のことを言っています。アパルトヘイト、奴隷問題、自然破壊、侵略、などなど・・)
私たちは何度も何度も主張してきました。
私たちは自分の行動に責任を持つ必要はなく、私たちの行動のひとつひとつは全体にとって問題にならず、
まして私たち自身にはもっと影響のないものだと。
アメリカ合衆国では、ある人の行動が問題にされたり、異議を申し立てられたりしたときに、
“ここは自由の国だ!”と繰り返し言われます。法的には自由です。もちろん。
しかし、私たちの行動は何をもたらすのでしょうか?
私たちの行動は、未来の世界をどのようにかたちづくるかを決める重要な側面なのです。
(すべては両極により成り立っている。全体を意識しながら我を見つめ、
我の内側より全体を見つめる。バタフライエフェクト(蝶々の羽の作り出す小さな風が原因となり、
地球の反対側で結果として巨大な竜巻を作る)のように、自由に起こした行動が全体を巻き込む
ような影響を秘めていることを知ることは重要だということですね。)
私たちの未来は、今私たちが動物たちに何をしているかによって苦難を受けると断言します。
私たちが肉、卵、乳製品を食べることを選んだとき、私たちは生きとし生けるものに対して、
彼らが望みながらも得ることがとても困難な幸福と自由を拒絶したことになるのです。
(これは人類が無理やり牛や鳥や犬達を交配、繁殖させたり、狭い檻に入れて食用だけに
不自然に育てたりしている現実からの意見ですね。)
これらの戒めは数千年前から現在までかわりなく意義があるとされるヨーガスートラまでさかのぼります。
私たちはそれぞれ、複雑に絡み合ったカルマの網の目を織り上げ、そこに絡まることでしょう、
現実が私たちの行動によって作り上げられつつあるように。
私たちがlokah samastah sukhino bhavantuを唱えたり、話したり、あるいは考える時、
もし“すべての存在“という考え方に、地球を共有している他のすべての動物たちを含めるなら、
食べ物として利用している動物たちを含めるなら、
私たちがそこに生きたいと願う慈悲に満ちた世界を造り始めることができるでしょう。
(我々は、相手を思いやるという全体を意識することによって個が幸せになることができるという、
矛盾のあるような世界にいます。身近にいる相手ではどうしても実感が持てない場合もあります。
なので、すべての生き物に対してまで対象を広げることにより、大きな世界から
個という自分自身の大切な部分が、ぽっ!と、浮き上がるのではないでしょうかね?)
ヨーガの練習は私たちを正しい行いと、
他の存在の幸福に対する思いやりによって動かされる、ライフスタイルに導いてくれます
私たちが他の存在をどのように扱うかということと、
私たち自身の幸福と悟りとの結びつきを理解するための最初の一歩は、
ヨーガの練習が明らかにしてくれることの深遠な側面に目を向けることなのです。
(ヨーガの練習をインストラクターの魅せる(見せる)ポーズのまねをしてするのではなく、何かに意識を
置いて繰り返しされ、ハタヨガの効果により、瞑想をしているような感覚により、
見えてくることがあると思います。興味がわいてくることもあると思います。
習慣によって当たり前とされる事柄を正しいと思っているけど、実は(他の国では)異なっていたり・・・
その感覚をヨーガの練習でシェアできたらいいですね。)
-Sharon Gannon, adapted from Yoga & Vegetarianism
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